レ・セイズ・ブレウル (fin)


「セイズ・ブレウル」であること、それはまた精神状態、踏みならされた道から踏み出ようとする意思であり、ホンモノの追求であった。この傾向は、グザヴィエ・ド・ラングレに影響がない訳ではなかった。彼は「ブルターニュ風」にすることを自らに禁じた。それ故に、彼の若い時代に行った精神的参加を尊重することによって、この拒絶の真の理由を追及する必要がある。逆説的に、彼はまた、油彩画に世界的な様相を与えようとして、
先輩や同年代の人びとに対してなされた批判を避けるために、中立を守ったのである。私の父がいささか軽べつした「過去の証拠」である油彩画が今日熱狂的に迎えられることは、われわれの文明の動きがすばやいという事実によって、説明がつくかもしれない。それ故、これらの油彩画は、芸術家の才能と人格とは切り離して、確信的な時代の貴重な証拠となったのである。この改革がなければ、20世紀前半の数多くの画家たちはしらないままであったろう。


 しかも私の父のほかにブルターニュ人はいなかった。彼が望んだのは、彼の油彩画に彼の出自(オリジン)を刻み込むことであった。ブルターニュは、彼の作品のこの分野では、めったに現れていないのである。彼は、慎重に熟考して、そうしたと確信することができる。何故ならば、要するに、私が関心のあるこの問題を問うた時点で、彼が私に説明してくれたことは、時代の証拠を残すというよりは、古典的な画家の思い出を残そうと願ったというのであった。


 彼は、建築家ジェイムズ・ブイエの友人であった。彼と共に、もう一つの別のグループ「キリスト教芸術のブルトン工房」を創立した。この二人組は、完全に機能した。とくに二人は組んで、ラニオンのマレージュ・サン・ジョゼフの礼拝堂を作ることになった。


 1925年、「典礼工房」(les Ateliers liturgiques)を創設した。ド・プランホル夫人は、宗教的装飾を供給して、ラニオンの礼拝堂の調和を分かち合った。ジェイムズ・ブイエは誤って監禁されてのち、1945年迷った末に去った。「キリスト教芸術のブルトン工房」は創立者の手では、生き長らえることができなかった。


 グザヴィエ・ド・ラングレは、戦後、「セイズ・ブレウル」の最後の会長となった。しかし心はもはやそこになく、この運動はまもなく彼の手で消滅された。




ガエタン・ド・ラングレ


写真
セイズ・ブレウルに捧げられた著作
「アル・メン」No 52,55
ダニエル・ル・クーエディックによる




Edition Terre de Brumes