略歴 (fin)

 確信的な地方主義者であり、「ブルターニュ運動」に参加して、ブルトン語の綴り字の統一に決定的な役割を演じ、ブルトン語による書籍の普及に、ヴェファ・ド・べレンとルーアン・ユオンと共にブルターニュ戦線の共同創立者である Ar B.A.L.B. レンヌのケルト・サークル会長と共に力を供し、ブルターニュ訴訟にたずさわった。相談相手となり、慰め役となり、彼の門扉は、午前中は制作の邪魔になるのをきらって、昼頃には、いつも開かれていた。疲れを知らぬ、鉄の意志をもった働き者でありながら、気さくな人柄がつねに表れていた。この夢見る人は、20点の素描アルバム「荒涼たるサン・マロ」の作者として本を出版するような行動の人でもあり、目覚めていた。


 彼の生涯は、完全性と美に向かった絶え間ない追求であった。まさにひとつの Graalの追求、よりよきものへ向かう「芸術家の十字架の道と殉教」であった。


- 絵画作品と文学的宗教的作品にみる神秘的追求


- 線や基底材の完全性にみる技巧的追求


 彼の完全性への願望は、最近作を重んじて、過去の作品を否定し、古い作品を打ちこわしたり、再利用して塗り重ねて制作したりしている。


 ブルターニュにこだわったが、その作品は世界的な性格をもつことを望んだ。彼が最もこの境地に達したのは、著作によってである。「油彩画の技術」は日本語とオランダ語に翻訳され、「アーサー王物語」は、アーサー王伝説という世界的主題の一翼を担うものであり、フランス学士院賞を受賞した。不幸にもこれらの著作は英語には翻訳されていない。


 彼の絵画は、1939年ブリュマンタル賞、1962年のニューヨーク賞をもって報われている。レンヌのブルターニュ美術館による版画作品の買い上げにより、挿絵画家としての作品は、多くの人びとの賞賛を受け、モニュメンタルな作品は、いつも開かれている宗教的建物や、レオン美術館、レヌヴァン美術館を訪れれば、見ることができる。


 満ち足りた生活ののち、69才でレンヌで死去した。しかし完全に成就したわけではなく、「アーサー王物語」の他の巻をブルトン語に訳したいと思いつづけていた。彼は若々しい男としての思い出を遺している。それは早く世を去った者の特権である。平安を見出すことができたのであるが、「自分の中にある不安は、絶えず自分と共にある」と語っていた。


テュグデュアル・ド・ラングレ