略歴 (suite)

― 父の兄弟エリー・ド・ラングレ;サルゾー町長、顧問。ブルトン語をしゃべり、解放的で献身的な人柄。と同時に好奇心にあふれ、才能あるアマチュア画家であった。彼の曽祖父アメデ・ド・ラランシュヴィルの気質も受け継いでいた。


幼年時代、コアノ・アン・シュルジュール(モルビアン)とピレネ山中のアルジェル・エス・ガゾですごした。後者のより太陽に恵まれた冬が、彼の両親を引きつけた。こうした環境で、彼らは教師であり、彼の教育にあてた。教え子の中には、アルジュレスの助任司祭で修道院長となったカラゼ師があり、彼の教養に決定的な影響を与えることになり、文学を見出させ、バスク地方を愛することを教えた。はじめ、ブルターニュには、無縁であった。

*写真*
コアノ ネブ

  
早くから、デッサンすることを好み、彼の母と姉(妹)に支援されて、ナントの美術学校に入ることを両親から許されて(1922年)、ついでパリの美術学校にすすんだ (1926-28年)。
 


 パリ滞在中、両親の許を離れている間にブルターニュに近づいてゆき、その自由な時間を利用して、本だけでブルトン語を独習した。サルゾーで知り合ったグザヴィエール・レ・ハーンとの親交が、版画への共通の興味を強め、パリのハーン家に受け入れられて以来、彼らが死去するまで交友が続いた。


 ついで陸軍に入隊。フォンテンブローで幸い騎兵隊に所属して、森を友とした。そこからマレシャル=デ=ロジ=シェフに移ったが、芸術家としては悪くはなかった。


 両親がコアノに住んでいたので、ブルターニュに帰り、画家として乗り出した。


 ブルターニュの多角的訓育のアトリエ「セイズ・ブルール」(7人兄弟)の時代、このアトリエに密接な関係をもち、1937年のパリ万国博覧会のブルターニュ館の実現を委嘱された?後述?。建築家ジェイムズ・ブイエとともに「キリスト教芸術のアトリエ」を設立した。


 彼には戦争まで9年間の猶予しか残されていなかった。戦争前の時代、豊かで活気に満ちており、ブルターニュでは、芸術の刷新があり、なおも豊かな教会は教会堂を立て、それを飾った。彼はがむしゃらに働き、計画を立て、技法を研究し、年若くして注文をとりつけた。1931年アミック・ガゼ・デュ・シャトリエと結婚し、やがて4人の子供を得た。彼女は生涯、夫の手助けに専念し、その没後も、夫の作品をひろめ続けた。


 1939?45年の大戦中は、動員されたが、「戦争のいたずら」でヴァンヌにそのまま留めおかれ、馬が足りなくて参戦できなかったから、別の天地(シリア)を見出そうとしたが、受け入れられなかった。1940年除隊したが、厳しい現実に触れ、注文はもはやなかった。フランスは、5年間、20世紀初頭頃に舞い戻った。自動車は挑発され、電気はとまり、すべてが秩序を失い、馬車が復活した。芸術家の出る幕はなかった。